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今日のお知らせ
 
謹賀新年 2012/01/01
あけましておめでとうございます。
昨年はみなさまに支えられ、なんとか年を越しました。
今年はいっそう地に足を着け、階段を一歩ずつ登ってまいります。
どうぞよろしくお願いします。
東京武蔵野シニア監督日記 6 2011/12/05
連載コラム「見るとやるとは大違い」
その6 本当に自分本位になった子どもたち

改めて「怒鳴らない」と約束してからも、やっぱり時々怒鳴っています。あの時期ほどずっと怒鳴りはしません。和やかな雰囲気で練習し、試合に臨みますが、どうしても許せないときがあるからです。
いちばん感じるのは「テンションが低い」。車でいえばアイドリング時の回転数が低い。走り出してものっそりしている。内に秘めた闘志が全体に弱いのです。その一因が「自分のことしか考えない」からだと気づくに少し時間がかかりました。いまの子どもたちは、自分本位な考え方、行動が当たり前なのです。幼いころから、自分がよければいい、と教えられる。あからさまにそういう言い方はされないでしょうが、親は子どもの成功・成果・成長ばかりを求め、無意識のうちに自分本位の人間形成がされている。僕らが子どものころは、子どもたちが一緒に遊び、助け合い、仲間とつながって生きる中で、人を思う気持ちも自然に育っていた。いまは、他人と深く関わらない。心理や行動形成の環境が変わっているのだとつくづく思い知らされます。
東京武蔵野シニアの選手たちは大半が、気持ちのいい少年たちです。素直で、ひたむきです。どちらかといえばおとなしい「いい子」が多い。突っ張りや反発ばかりするタイプはあまりいません。だけど、自分本位な子どもなのです。本人のせいではないでしょう。この時代、この社会環境が、他人のことを考えない人間(そういう思考回路や行動回路)を作ってしまうのでしょう。そこを打ち砕き、熱い心で行動する人間に育てたい。僕が怒るのは、監督の熱の表現だと、選手たちが感じてくれていればいいなと思っています。
東京武蔵野シニア監督日記 5 2011/12/04
連載コラム「やると見るとは大違い」
その5 怒鳴ると癖になる

約1カ月、僕は怒鳴り続けた。そしてある日、長岡の合宿から帰ってまもなく「監督はもうあんまり怒鳴らないよ」と、再び選手に約束した。怒鳴り続けてよくわかったのは、「怒鳴ると癖になる」ということ。怒鳴るモードのスイッチが入ると、なんでもかんでも怒鳴りたくなる。経験のある監督は、怒るべきときに怒鳴り、そうでない些細なミスには声を荒げない。僕も最初はそのケジメをつけていたつもりだった。他人から見ればわからないかもしれないが、選手が怠慢なプレーをしたとき、明らかに自分との戦いから逃げているとき、逃げを許さない、ごまかしは許さない、それを叱咤する意味で怒鳴っていたつもりなのだ。ところが、怒鳴る行為が常態化すると、だんだん怒鳴ることに慣れてくる。怒鳴るのが行動の基本パターンになって、些細なミスにも思わず怒鳴り声が出るようになる。それに気づいて、(これはまずいな)と思った。それで僕は、やっぱり怒鳴るのはやめようと決めた。怒鳴るときと怒鳴らないとき、きっちりケジメをつけるという選択肢もあるが、それは違うと感じたのだ。
怒鳴ると自分が気分悪い。偉そうにして気分がいいわけじゃない。空しい。怒鳴らずに、選手がのびのびとプレーしたほうがいいに決まっている。それに、監督が怒鳴れば、監督と選手は上下関係に縛られる。僕は選手と一体になって野球をしたい。僕が上にいて、選手を思い通りに駒扱いしたいわけじゃない。選手のDNAにスイッチを入れてあげたいのだ。怒鳴り始めたのもそのために必要ならと感じたわけで、監督と選手は主従の関係でなく、師弟関係、チームの仲間だ。ひとつの目標に向かって一緒に取り組む監督と選手が常にいかめしい顔で対峙しているのはおかしい。
8月半ば、怒らなくなって臨んだ試合、中盤にミスが出て5点のリードを奪われた。もちろん、怒鳴らなかった。選手のミスは監督の不足だ。監督のせいじゃないとばかりに選手を怒鳴れば、選手と監督は仲間じゃない。選手のミスを監督が自分のことと受け止める、その苦境から脱するための火を点ける、その結果、最終回に連打連打を重ねて、チームは同点に追いついた。逆転はならなかったが、一挙5点を挙げて引き分け。充実感のある試合ができた。
東京武蔵野シニア監督日記 4 2011/12/03
連載 「やると見るでは大違い」
その4 怒鳴らない約束を破った

前回の原稿を読んで、「自分は子どもたちを怒っていました」と、反省のメッセージをくださった少年野球指導者がいました。
「そうだよ、怒鳴っても仕方がない」と、返答したいところですが、前回の話には続きがあります。今回の話を書くための導入(苦笑)。なのに更新間隔がずいぶん空いて、すみませんでした。
公式戦のたびに、僕は約束を破って怒鳴りました。
試合開始早々から、選手たちが信じられないミスをする。そのミスの仕方が情けない。戦う準備ができていない。打球から逃げてのトンネルや万歳や簡単なエラーが続発する。
「お前たち、何をびびっているんだ!」
春も夏も同じでした。
怒鳴らないと約束しているのに、つい怒鳴ってしまう自分に自己嫌悪を覚えながら、
「いくらなんでもひどすぎる」
一方で自分を肯定する思いが消えない。
「勝てないのは監督のせいや」「監督の気持ちが選手に伝わっているんや」
宇城先生からはご指摘を受けます。
選手がびびるのは、僕自身がびびっているからか……?
一緒に宇城先生に学んでいる総合工科高校の有馬監督からは、
「入り方が悪いんじゃないか?」と、助言をもらいました。その言葉を聞いて、試合への入り方、つまり心の持って行き方のことかと思ったら、違いました。打球に対する内野手の入り方。問題はメンタルでなく、技術的な基本だと。それは明快な指摘でした。
練習試合を重ねて、ずいぶん安定して来たのですが、どうもまだ物足りない。戦闘モードに入れない。
なぜだ?
気がついたのは、子どもたちのテンションの低さです。
実際にグラウンドに立ち、まともに顔や頭に当たれば死の危険さえある硬球で野球をやりながらぼんやりしている。
「お前たち、テレビで野球を見ているときとおんなじテンションで野球やっていないか?」
「テレビゲームやってるのと、おんなじじゃないか!」
ある日の試合中、ふと気づいたのです。
顔に張りがない。ぼーっとしている。
そのテンションの低さが僕を苛立たせる一因だったのでしょう。
「試合のときに怒鳴るくらいなら、練習のときから怒鳴ってやる」
僕は、理想論をかざして格好つけている自分に気がつきました。
「怒りませんよ」と親にも子にも約束した。頭で決めた約束を練習中は守れる。けれど、いざ公式戦になったら、そんな分別で自分を抑えきれない。つまり、練習は僕自身、本気でやっていないってこと?
その日から、「俺は自分を隠さない、練習も本気でやるぞ」と宣言し、怒鳴り始めた。怒鳴りたいわけじゃないけど、怒鳴るしかない場面では遠慮なく怒鳴る。7月の下旬から、練習中の雰囲気(監督の態度・姿勢)は一変したのです。
8月上旬、長岡合宿ではそのテンションがピークに達しました。
母校・長岡高校野球部の先輩・同期・後輩たちが中心になって運営している長岡シニアとの練習試合、合同練習試合、そして親善大会で、僕は一日中、怒鳴りまくっていた。
「ノブヤ、お前、怒鳴りすぎやろ」
「お前、柴さん(高校時代の恩師・柴山監督)がむやみに怒鳴るから大嫌いとか言っておきながら、自分も柴さんと同じらねっか」
とみんなから笑われ、批判されるくらい、怒鳴り続けました。
「あれじゃ、子どもたちが萎縮するぞ」とも。
東京武蔵野シニア監督日記 3 2011/08/20
連載「やると見るでは大違い」
その3 子どものほうがずっとわかっている

東京武蔵野シニアが基本にしているひとつは「しっかりと立つ」こと。両足を肩幅に開いて立つ選手の腰の真ん中を指で軽く押す。ほぼ全員が最初はグラっと前につんのめる。「つのんめっちゃダメ、しっかり立って」とだけ言ってもう一度押すと、小学生、中学1年生は大半が、今度は押しても倒れない。身体が自然と、しっかり立つDNAのスイッチを入れ、目覚めるのだ。大人はそれができない。同じことを試すと、いくら言っても、何度も前につんのめる。大人になると頭で考える。頭の命令で身体を動かそうとする。頭は、しっかり立つ方法論(答え)を知らない。だから、できない。やれば明らかな事実だが、プライドの高い大人は(頭が固くなった大人は)、それでもなお、「子どものには簡単にできることが大人にはできなくなっている」「子どものほうがずっとわかっている」という事実を認めようとしない。そして、理屈で子どもを制圧し、大人というだけで、上から目線で子どもを教えようとする。わかっている大人と、わかっていない大人がいる。本当は、わかっていない大人が子どもの指導をする資格はない。
僕が監督になるとき肝に銘じたのは、「子どものほうがわかっている」ことを決して忘れないこと。子どもは無限大の可能性(DNA)を秘めている。同時に、自分が率先して学び、実践し、「できる」こと。できる大人にしか、まだ眠っている子どもたちのDNAにスイッチを入れてやることはできない。できない大人が、頭ごなしに怒鳴っても子どもたちの才能は開花しない。
東京武蔵野シニア監督日記 2 2011/08/19
連載「やると見るでは大違い」
その2 怒鳴らない約束

チームを作り選手を募集するとき、「監督は怒鳴りません」と約束した。少年野球のコーチをした3年間、口汚い言葉がグラウンドに飛び交い、監督・コーチが正当と思えない論理で選手を罵倒する光景をほぼ日常的に体験した。監督の横暴、権力の悪用。勉強が足りないと思う監督・コーチが、勝手な持論を振りかざし、子どもを威嚇する。「その論理は間違っている」と感じることはしばしば、だが、子どもたちは従うしかない。
高校時代の切ない日々の記憶が甦る。高圧的な監督に、やる気を削がれる毎日だった。自分も弱かったのだが、監督と選手の心がもっとつながって野球ができたらどんなによかったかと、高校野球を終えたあともずっと思い続けている。似たような状況が、いまも少年野球の多くのグラウンドで展開されている。これをなんとかしなければ! 僕がシニア(中学硬式野球)のチームを立ち上げるひとつのきっかけはそこだった。
監督が威張らない。いや、監督は指導者であるに相応しい勉強を積み、はっきりした指導の核心を持つ。指導する以上、真理を知って子どもと接する。情熱さえあれば試行錯誤が美しいように言われる現代だが、ふらふらした試行錯誤では、子どもたちに大変な悪影響を及ぼす。後遺症をもたらす。本当は教育の世界も同じ。真理を知らずして教員になっている人たちが大半。だから学校はいま大変な実情に陥っている。
未熟ながら指導する立場になった者は、なにより謙虚でなければならない。自分がいちばん偉いと思ったら大間違い。でも多くの監督は、たとえ少年野球であっても、勘違いする。偉そうになる。偉そうにしなければいけないと思っている人もいる。
大人は(監督・コーチは)、「自分たちのほうがわかっている」と思い込んでいる。それが大間違いだ。「子どもたちのほうがずっとわかっている」。その事実に気づかない。だから、威張る。頭ごなしに子どもたちを怒鳴って平気でいられる。
東京武蔵野シニア監督日記 1 2011/08/18
連載「やると見るでは大違い」
その1 戦う者の心の声

 東京武蔵野シニアの監督として大会に出場し始めて、半年が過ぎた。同時進行でチームの様子を発信する気は一切ない。文章を書くために監督を始めたわけではない。だがこの半年、あまりに濃密な日々が続いている。55年間生きてきて、これほど夢中に毎日生きている時代が過去にあっただろうか。のめり込む質だから、いつだって一途に突っ走って来たけれど、脇目もふらず直感と熱情だけで走った若い時期と違い、いまの熱さは〈確固とした使命感〉とつながっている。登るべき高い山を見上げながら、「この山を登るのだ」という強い意志と確信に支えられて進んでいる。山頂は遥か彼方、雲に遮られてまだはっきり見えないが、確かなゴールに真っ直ぐ向かっている実感と喜びがある。
 試合も、チーム作りも、決して思いどおりに行かない。簡単に強くならないし、勝てもしない。だが、打ちのめされる現実も含めて、苦じゃない、清々しい。
 スポーツライターの立場で取材し、原稿を書いていた時には決して感じなかった〈戦う当事者の気持ち〉で生きている。監督になって感じる、決定的な違い。まだまだ駆け出しだから、ほんの一端にすぎないだろうが、それでも、評論する側と挑戦する・創造する当事者の生きる感覚の決定的な違いがあることを理屈抜きに知った。
 自分だって元は選手だ。いまも「人生を戦う現役、勝負の感覚はわかる」とうぬぼれていた。が、全然違った。スポーツライターの「わかったつもり」と、監督の生々しい感情は根っこが生えている場所が全然違う。実際に子どもたちと一緒に戦い、現場で勝負して湧き上がる気持ち、その気持ちが感じる喜び、現実への違和感など伝えることはやはり自分の務めではないか。そう感じて、新たな日記を紡いで行こうと決めた。同時進行でチームの詳細を報じるのではない。僕自身が感じる、現場からの叫び。子どもたちとの野球を通じて、自分自身の成長を目指す実践者の心の声を文章にします。
新連載まで少しお待ちください 2011/06/06
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東京武蔵野シニア 誕生物語 第10回 2011/01/28
 長らく更新せず、すみませんでした。
 東京武蔵野シニアの誕生を綴るこの物語は、当初から10回程度で第一幕の区切りをつける予定でしたが、当初の想定と違う結末となりました。
 フロント側の先頭に立ってくれていた佐藤隆俊代表理事が、「野球観の違いから」12月5日をもって、辞任・退団したのです。
 お互いの解釈や意見の相違もあってこのような事態を迎えたので、彼の退団について語ることは控えます。
 明確な事実は、一緒に球団を立ち上げたひとりが退団し、当面、私が現場・フロントともに球団運営の先頭に立たねばならない、ということ。彼の父親である佐藤四子男副会長も辞任・退団されるのは発足の経緯からして致し方ないにしても、高橋勇会長は引き続き力を貸してくださるものと思いましたが、
「地域の人間関係で引き受けたことだから、続けるわけにはいかない」
 と、高橋会長も辞任。櫻井副会長も退任しました。
 継続的に使用する練習グラウンドの手配を佐藤君に担当してもらっていたので、グラウンド探しが急務になりました。幸い、すぐ代わりの練習場が見つかり、選手たちに迷惑をかけずに済みました。
 地元の財界から組織的に支援を受ける展望はこれで白紙になりました。潤沢な活動資金に支えられる態勢は幻になったわけですが、権威的な組織に依存するのはもともと東京武蔵野シニアの方向性には合わないかった。本来のスタンスに戻ったことをむしろありがたく感じています。
 現場の指導体制、指導方針はまったく変わりません。現場と少し違う考えを持っていたフロントが総退陣して、球団の基本姿勢・それを貫く指導体制は真っ直ぐになりました。
 というわけで、東京武蔵野シニア誕生の物語はまず今回で波乱をもって幕を閉じます。
 それから2ヵ月、お陰様で現場では活気あるチーム作りが続いています。今後とも東京武蔵野シニアの成長をどうぞ熱く見守り、ご声援ください。
東京武蔵野シニア 誕生物語 9 2010/10/20
 決断すべきもうひとつの課題もあった。
 小学校を卒業したあと、息子はどのチームで野球をするのか。
 その時点で(昨年秋)卒業まであと一年以上ある。すぐ決める必要はなかったが、もし私がチームを作れば、当然そこに入って欲しい。私の決断は息子の進路にも関係する。
 少年野球を始めた当初は、漠然と軟式野球を考えていた。地元の公立中学に進学する予定だから、その野球部に入るのが普通の選択になる。少年野球のコーチ仲間から「仕事の時間もある程度自由になるのだから、中学の外部コーチになったらいいんじゃないの」と勧められた。当初は、もし歓迎されるなら、そうしようかと考えた。
 だが、実情を聞いてみると、地元の公立中学の野球チームはそれほど熱心に活動していない。私がコーチとして発破をかければ変わる可能性もあるが、少年野球の経験を重ねるほどに、それがたぶん「ありがた迷惑だろう」と予測できた。先輩たちを見ていると、その野球部は週末や夏休みに練習をしない日がたくさんある。息子には物足りないだろう。もし私がコーチになって「毎日練習するぞ」と宣言したら、波紋を呼び、抵抗や批判を受けるに違いない。野球に対する姿勢の温度差がありすぎると、チームは難しい。少年野球ならまだしも、中学に入って温度差の違う仲間と一緒に“野球に打ち込む”ことは不可能だろう。
「熱く野球をやりたい!」
「武術の心技体を学んで、武術を基盤にした野球をやりたい」
 熱い意志を持つ子どもたちと一緒に野球に取り組む、野球を通じて人格を磨くのがそもそもの目的だ。
 そこに至ると、公立中学で息子が野球をする、私がその指導を手伝う選択肢は消えた。
 外部のクラブというと、名門・強豪と呼ばれるシニアのチームも自宅からなんとか通える範囲にいくつかある。選手の数も多い、レベルも高い、厳しい環境に息子を放り込むのもひとつの選択ではある。野球の指導経験を持つ知人たちの多くは、
「他人に預けたほうがいいぞ」
 と、忠告してくれた。その意図はよくわかる。だが、息子が取り組んでいる宇城流の野球を理解している中学野球の指導者は、私の周りにはいない。それを基盤に取り組むチームもない。
 息子は小学校4年の春に少年野球チームに入団してからずっと、絶えずその打ち方、投げ方、選ぶ道具に至るまでひとつひとつ文句を言われ続けていた。
「そんな打ち方でボールが飛ぶのか」
「それじゃ、タイミングが取れないだろう」
「木のバットはダメだ、金属バットを使え」
「もっと重心を低くして投げろ」
 などなど。
 息子は幸い大らかな雰囲気を持っていて、飄々と自分の姿勢を貫き続けた。いつも笑顔の少年だが、子どもながらに、自分が信じる道とチームの方針が違いすぎる現実に胸を痛め続けてきたのも確かだ。
 もうこれ以上、曖昧な板挟みの中で野球を続けるのは限界だ。私自身、切実にそう感じていた。父親と取り組んでいる〈心技体の基本〉を完全に否定された状態で野球をやるのは快適じゃない。まして息子は、それができているわけじゃなく、懸命にその体得に取り組んでいる初心者にすぎない。
 せめて中学3年間、チーム全体が武術を基盤に置く環境で息子を鍛えたい。だとすれば、私が徹底して武術を基盤に取り組むチームを作り、一緒に野球をするのが、唯一の道だ。
 周りが武術に批判的だと、息子の練習姿勢も曖昧になりかねない。一投一打、厳しく問われないからだ。武術を基盤にするチームなら、曖昧な姿勢、いい加減な打ち方は一本たりとも許されない。そういう意味で厳しい環境、打ち込める環境に息子を置くことは親として当然の務めだ。家内もそれを望んだ。
 他人は「監督の子どもがチームにいるのか」と、余計な心配をするらしい。私にすれば、だから「最大の障害が消えた」ほうがよほど大きい。
 すなわち、「収入は激減する」「週末はほとんど野球一色」、シニアの監督を務めることを、普通なら家族は賛成しないだろう。私の場合、それが家族の一致した取り組みだから、全面的な賛同と協力を得られる。賛同どころか、少しでも気を抜いたり、指導に甘さがあれば、家内が私を許さないだろう。家内は他の面でも、一切私の言い訳を許さない。厳しい人だ。チームの中に、最も妥協を許さない母親がいる。それでも私はチームを作り、監督を務めようと決めた。
(やるしかない、これが自分にできる最大の実践だ)
 揺るぎない思いが私の中にスッと立った。それ以来、二度と後戻りは考えなくなった。前に進む。本を書いて名作を残す以上に、これこそが自分のライフワークではないか、そう感じて身震いした。これができる環境にたどり着いたことに、心から感謝を覚えた。
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